般若寺の歴史

日向山 九品院 般若寺の歴史

三国名勝図会・般若寺

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日向山 九品院 般若寺(にっこうさんくほんいんはんにゃじ)、般若寺村にあり。
本府大乗院の末にして、真言宗なり、千手観音を本尊とす。
初め、當寺天台宗にして、性空上人(しょうくうじょうにん)の開基といひ伝ふ。
其後何頃(なんごろ)の年代に、真言宗に改まりしにや、審(つまびら)かならず、真言宗の開山を阿宗然法印といふ。
往昔(おうじゃく)足利将軍尊氏、筑紫にあるや、當圍(とうい)へ下向して、此邑に来り。
國人(こくじん)草部義國(くさべよしくに)に謀り、當寺を本陣とせらる。
當時、當邑、鶴岡八幡社の別當は當時住僧より兼務せり。
廼ち(すなわ)ち其別當僧を召て、盃を賜ふ、時に(足利)将軍の歌に、

 日に向ふ山のあるしを来て見れば 端山(はやま)に照らす有明の月

かく詠(えい)ぜられしに、別當の返歌に

 吾妻(あづま)より西の山の井清ければ 月日も澄める寺井なるらん
 
将軍感稱(かんしょう)せられしとぞ、此時将軍より、本尊千手観音へ、祈願を立てられ、利運ありしかば、本堂を建立し給ふ

「三国名勝図会(さんごくめいしょうずえ)」より

三国名勝図会・供養塔群

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(要約)
日向山 九品院 般若寺は、鹿児島県姶良郡湧水町(姶良・吉松町)般若寺にあります。
大乗院の末社にして、千手観音を本尊とする真言宗の社寺です。

当初、寺を開基したのは天台宗の性空上人であったと言い伝えられています。
その後、いつごろ真言宗に改宗されたのか、また開山したのは阿宗然法印と言われていますが詳細は不明です。

その昔、将軍・足利尊氏(1305年~1358年)が筑紫の国から下向して村を訪れました。
尊氏は國人(南北朝時代から室町時代にかけ、地方で小規模な領主制を形成した地頭・荘官・有力名主の総称・国人領主)である草部義國を呼び、建武3年(1336年)般若寺を本陣とし挙兵しました。
当時、寺の別當(本官をもつ人が他の職務の統轄に当たるときに補任される職名)は、鶴岡八幡神社の別當も兼務していました。
尊氏はその別當住職に杯を下賜し、「日に向ふ山のあるしを来て見れば 端山に照らす有明の月」と歌を詠みました。
別當が「吾妻より西の山の井清ければ 月日も澄める寺井なるらん」と返歌すると、尊氏はいたく感激し、本尊の千手観音に祈願しました。
後に利運がもたらされたとして、観応年中(1350年)本堂を建立し寄進したと言われています。

※ 足利尊氏(あしかがたかうじ)
鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 – 1358年)。足利将軍家の祖。足利貞氏の次男として生まれる。足利氏の慣例に従い、初めは得宗・北条高時の偏諱を受け高氏(たかうじ)と名乗っていた。元弘3年(1333年)に後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が伯耆船上山で挙兵した際、その鎮圧のため幕府軍を率いて上洛したが、丹波国篠村八幡宮で幕府への叛乱を宣言、六波羅探題(ろくはらたんだい)を滅ぼした。幕府滅亡の勲功第一とされ、後醍醐天皇の諱・尊治(たかはる)の偏諱を受け、名を尊氏(たかうじ、読みに変化なし)に改める。(出典:Wikipedia)

廃仏毀釈により甚大な被害を受けた寺の跡地には、無残な五輪塔や歴代住持の供養塔群が遺されましたが、郷土研究会や教育委員会によって、いずれも立派に復元されています。
般若寺の板碑や五輪塔群は、古石塔研究の貴重な史跡であり、湧水町の文化財に指定されています。

歴代住持の供養塔群

歴代住持の供養塔群

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歴代住持の供養塔群

歴代住持の供養塔群

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般若寺跡地に立てられた掲示板には歴代住持26人の名が記されています。

般若寺の創立年月日は明らかでないが、円上聖人あるいは性空上人の開基だと伝えられ、本尊は高さ一寸八分(五.四センチ)の金製の阿弥陀様であったと言われます。
 今から約八百六十年前鳥羽天皇の保安年間(一千百二十年~一千百二十三年)に高さ二.一米の梅の古木が祠の中から湧き出たということがあってから、これを本尊として千手観音といっていました。
そこで、奇怪なことは住職交代のとき開帳する際、観音仏の寺僧を信任するときは仏体である古木に満開の花を見るが、忌避する時は、花が咲かなかったと言い伝えています。豊臣秀吉の時代になってから島津義弘が、この寺を信仰して寺の財産として田地を奉納したり、肥後より刀と釣鐘を奉納しました。
二月十五日を縁日として参拝者は絶えることがありませんでしたが、明治二年廃仏毀釈の際ことごとく破壊され一千年間霊光を放ってきた寺も今や荒れ果てた山となってしまいました。

(歴代住持)

阿宇然 賢恵 尊恵 盛賢 賢慶 賢海 盛秀 光海 慶油 源恵 実秀 頼長 堯真 快寿 頼盛 頼圓 頼寿 盛喜 頼顕 頼安 頼久 広運 盛応 覺宝 宥秀 尊昌

 吉松町教育委員会

供養塔群の間に群生するお茶の木は、足利尊氏が九州に陣を進めた時、吉松の般若寺に本陣を定め、山城の宇治から茶種子を取り寄せ、同寺院境内に播種し次第に全村に広まったとされています。
また、「吉松町沿革史」によると、般若寺の開山住持が京都・宇治から下山し、寺の境内に茶の木を植え、門徒に製法を伝授したと記されており、これらのことが鹿児島茶に関する最も古い記録となっており、いずれも鹿児島県茶業史に記されています。
般若寺の歴史は古き信仰とともに、鹿児島茶の歴史でもあると言えるでしょう。

三国名勝図会(PDF) | 湧水町公式Webサイトより