神仏習合(神仏混淆)

神仏習合とは、日本固有の八百万の神々に対する信仰と、外来宗教である仏教信仰とを共存させるために融合・再構成された信仰体系です。
多くの場合、日本での神祇信仰と仏教との融和を意味しますが、世界でも仏教が広まった際、その土着の信仰と仏教との間に起こった現象をも指しており、「神仏混淆」とも呼ばれます。
神仏習合の時代、神々は同時に仏や菩薩でもあると考えられ、神社の境内に神宮寺を建立するなど日本古来の神道と共生しながら、ゆっくりと仏教は人々の日常生活に浸透していきました。
日向山 九品院 般若寺も同様に、寺院でありながら同時に神祇神道の伝統も受け継いでおり、仏教の仏様と神道の神様が混在する「神仏習合」の名残を色濃く留めています。

神宮寺の建立

仏教は6世紀の半ば、欽明天皇(在位539年~571年・第29代天皇)の時代、インドから朝鮮半島・百済を経て日本に伝来しました。
その強大な布教力と極めて論理的な教義、数々の優れた関連芸術を携え、仏教は静かに時間をかけて日本の文化や風土に驚くほど自然に融合していったのです。

しかし、日本の社会に仏教の教えが広まるにつれ、神々に奇妙な現象が起こります。

8世紀の初頭あたりから、神としてのお勤めをこなすうちに自身の罪業意識に苛まれ、苦悩する神様が現れ始めました。
それらの神々は、神として長年なしてきた因業から解脱(神身離脱)せんがため、仏法に帰依したいと願ったのです。
そんな神々のために、各地で神社の境内に仏門修行のための寺院(神宮寺)が建立されるようになりました。
記録によると、最初の神宮寺が創建されたのは715年のことで、福井県敦賀市の気比神宮(越前國一宮)であったとされています。
このような神宮寺で修行するうち、徳を積み重ねた神様は菩薩や仏と同一視され、やがて神々は仏や観音菩薩が衆生を救うためこの世に顕現した仮の姿であるという考え方が浸透していったようです(本地垂迹説)

本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)

神仏習合は、神々の仏教帰依から始まり、本地垂迹説をもって列島社会に定着しました。
以後、明治政府による「神仏分離」「廃仏毀釈」政策が施行され、それぞれが峻別されるまで、実に1千年もの長きにわたって神道と仏教は共存してきたのです。

それ、仏陀は神明の本地、神明は仏陀の垂迹なり。
    存覚上人『諸神本懐集』より

『諸神本懐集』の中で、「仏陀は在来の神の本地(本体)であり、神々は仏陀の権現(仮の姿)である」と存覚上人は説いています。
つまり、日本古来の神々は衆生を救うために、この世に具現化(垂迹)した姿に過ぎず、本来(本地)は仏や菩薩であるという考え方が「本地垂迹説」です。
この説に基き、天照大御神は観音菩薩(もしくは大日如来)、出雲大社は勢至菩薩、八幡神は阿弥陀如来、というように名だたる神々に本地が設定されました。
これにより、「神=仏」という概念が成立しましたが、あくまで神は仏の権現であったという事を考えると本地垂迹説においては、神より仏の方が優位であったようです。
仏教と神道の立場は逆転し、神社はまさに「庇を貸して母屋を取られる」という状態に陥ったのです。

護法善神(ごほうぜんしん)

本地垂迹説によって神々が仏の権現であるという立場に甘んじるようになり、神道ではメンツを保つために仏教を守護する神々を登場させます。
749年、東大寺の大仏建立に際し、宇佐八幡神を勧請して建立事業を援助したのが始まりとなっています。
「護法善神」の誕生に大きな役割を果たしたのが孝謙天皇(後の称徳天皇・第46、48代天皇・在位749~758年、764~770年)でした。
聖武天皇を父に、光明皇后(藤原氏出身)を母に持つ史上6人目の女帝です。
称徳天皇は、天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱を機に淳仁天皇を廃し、孝謙上皇を重祚(ちょうそ)しました。
762年、平城宮を改修するため、近江の国法良宮に都を一時移遷した際に病を患った孝謙天皇は、法相宗の僧侶で弓削櫛麻呂の子である道鏡に手厚く看護され、以来道鏡を寵愛するようになったと伝えられています。
出家して尼となっていた称徳天皇は、大嘗祭を執り行う際、神々を祀る大嘗祭を仏教徒である天皇が行う事の是非に触れ、「経典によれば仏法を守護するのは神々である」と宣言したのです。
その結果、765年11月に天皇即位とともに行われた大嘗祭は、神事でありながら仏門の僧侶が列席するという異例のものとなりました。
称徳天皇は道鏡を重用し、太政大臣禅師→法王へと取り立て、更には次期天皇として自分の後を継がせるべく画策します。
宇佐神宮より「道鏡を天皇として即位せしめよ」という御託宣が下ったという、偽りの情報を大宰主神(大宰府の神祇担当官の長)である中臣習宜阿曽麻呂が都へと伝えました。
称徳天皇はご神託を確認すべく、和気清麻呂を勅使として参向させますが、称徳の期待とは裏腹に清麻呂はこの神託が虚偽であることを上申したため、道鏡が皇位を継ぐ目論見は霧散したのです。
称徳は怒り狂い、清麻呂の名を「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と貶め、大隅国へ流罪としました。
以後770年3月に天皇が病に倒れるまで称徳天皇と道鏡の専横政治は続きます。

このように色々と問題のある政治運営ではありましたが、称徳天皇は道鏡とともに各地の大寺を行幸し、仏教を重視する政策を実行しつつ神社への保護も手厚く行い、神仏習合の拡充を促進したのです。