お堂の解説

本堂
本堂
本堂
千手観音・・・本尊
千の腕(慈悲)と千の眼(智慧)持つ観音として「千手千眼観世音菩薩」とも呼ばれる。
大きな慈悲と功徳をもたらす存在として「蓮華王」という別名も持ち、眷属として28人の天部(二十八部衆)を従える。

大日如来(金剛界)
密教の主尊で、宇宙の根源仏とされる。古代インドの言葉サンスクリット語「マハー・ヴァイロ―チャナ」の訳で漢字に音写すると「摩訶毘慮遮那仏」となる。マハ―(摩訶)とは「大」、ヴァイロ―チャナ(毘慮遮那)とは「あまねく照らすもの」つまり日本語に訳すと光明(大日)という意味。一切の諸仏、諸神、あらゆる生物、すべての現象を包摂する母胎であるという。
大日如来の像容は胎蔵界・金剛界の二種があり、胎蔵界大日如来は法界定印を結び、仏の慈悲が外に向けてはたらく様を表す。金剛界大日如来は智拳印を結び仏の智慧の堅固なことを示す。

性空上人・・・本寺の開基
性空(しょうくう、延喜10年(910年) – 寛弘4年3月10日(1007年3月31日))は、平安時代中期の天台宗の僧。父は従四位下橘善根。俗名は橘善行。京都の生まれ。書写上人とも呼ばれる。(出典:Wikipedia)
延喜10年、名門貴族・橘善根の次男として生を受けた性空は、出生時に左手の中に1本の針を握りしめていたと伝えられている。
それを耳にした人々は、性空を普賢菩薩の生まれ変わりだと噂したという。
幼い頃より天賦の才を発揮し、静かな環境を好んだ。10歳の頃から法華経を学び密かに出家を望んでいたが、貴族としての隆盛を願う母の反対で長らくその志が叶う事はなかった。
そのため、性空がようやく出家出来たのは36歳の時であった。
慈恵大師(元三大師)良源に師事して出家した性空は、日向国霧島山、筑前国脊振山で修行し、966年(康保3年)播磨国書写山に入山。国司藤原季孝の帰依を受けて圓教寺(西国三十三所霊場の一つ)を創建した。
霧島神宮の参道には墓があり、圓教寺の床下からは遺骨を収めた石櫃が発見されている。
弘法大師(空海)・・・真言宗の宗祖
宝亀5(774)年、6月15日、讃岐(香川県善通寺市)にて佐伯善通卿と玉依御前の間に生まれる。31歳の時、最澄(伝教大師)とともに遣唐使に従って唐に渡り、恵果和尚から金剛界・胎蔵界の秘教を伝承して日本に帰国する。大同2(807)年11月、大和の久米寺にて根本経典の「大日経」の講義をされ真言宗の立教開宗をして、36歳にして京都の高雄山寺(神護寺)に入住し、真言密教の法灯をかかげる。嵯峨天皇の外護のもと、和歌山県の高野山と京都の東寺を根本道場として真言密教の弘通と発展に努める。

※弘法大師(空海) ~ウィキペディアより~

釈迦涅槃像
涅槃像

「涅槃」とはサンスクリット原語の俗語形の音写で、「泥洹(ないおん)」ともいう。古くは煩悩の火が吹き消された状態の安らぎ、悟りの境地をいう。また、釈迦の入滅を大いなる般涅槃、あるいは大円寂といい、生命の火が吹き消されたということで入滅、死去をいう。2月15日の釈迦入滅の日を「涅槃会(ねはんえ)」として各寺院で追悼報恩の法会が行われている。

不動明王堂(護摩堂)
護摩堂
明王とは・・・
凡名をイドヤラジヤといい、インドの神湿婆神(じばじん)の異名がそのまま仏教にとりいれられ明王となった。仏教では、明王は如来の使者的な性格を与えられていたが、のちに明王の全部が大日如来の眷属となり、仏法の守護神となった。日本では、主として密教、特に東密が立てた尊者で真言の行者を守護し、一切の悪魔を降伏するものとして忿怒身の像体で明王を表している。
不動明王
アチャラナータの漢訳で、山のように動かない者の意。ヒンドゥー教のシヴァ神の別名。密教特有の尊格で、大日如来が教化し難い衆生を、時として恐ろしい姿で命令的手段をとり教化する使者としての存在の仏。縁日は28日。
諸天・天部
仏教は古代インドの神話宇宙を母胎として誕生しその神々を受け継いだ。神々は仏を讃え、仏を助けて仏法を守護するものとされる。各地、各時代に信奉された神々を取り入れることができ、諸々の民族宗教をとりこんで展開した。平安時代に神仏混合が定着し本地垂迹説にもとづき、本身は仏であるが、化身して日本の神々の姿をとるとされる。
白蛇明神堂(はくじゃみょうじんどう)
白蛇明神
明神は明王に類する日本の神の呼称。
偽経「宇賀神王陀羅尼経」「仏説即身貧転
徳円満宇賀神将菩薩白蛇示現三日成就経」の説から白蛇を宇賀神とし、また財宝の神である弁財天と混合して、蛇を神使とするに至る。
宇賀神
弁財天の化身といわれ、白蛇又は老婆の顔を持つ蛇のお姿をした福の神。もとは穀物の豊作を司る農業神で幸福・利益・智慧・財力などの福徳をもたらす神として日本では中世以降民間で信仰されていた。
日本神話に登場する宇賀之御魂神(うがのみ たま)に由来するとの説あり。
「財施」を意味する「宇迦耶(うがや)」に由来するとの説もあり、宇賀神のサンスクリット語「ウガヤ」が蛇を意味するサンスクリット語「ウラガ」に似ていること、インドでは白蛇を「ウガヤ」と呼んでいたことから宇賀神が蛇のお姿になった理由といわれる。また生息には「水」が必要で、水の守護神としても考えられ、弁財天もインドでは河川の女神であり水との関係が深いことから弁財天も宇賀神の縁日は巳の日とその対にあたる亥の日になったといわれている。
白嶽教龍上観音堂
白嶽教龍上観音堂
明治2年(1872年)、明治新政府の廃仏毀釈により甚大な被害を受けた寺の復興の折、最初に建立されたお堂。白嶽教の本尊である龍頭観音菩薩(りゅうずかんのんぼさつ/同義=龍上観音・りゅうじょうかんのん)が復興当初より祀られている。
般若寺を開山された性空上人も当時霧島山麓を修業していた際に今の「御池」にて入我我入し、加持し続ける中、九頭の龍が現れ、如意宝珠を捧げたが、「方便随類の身」すなわち垂迹神の姿であるとして否み、本地の姿を願うと千手観音に化したといういわれが残っている。
秘仏
廃仏毀釈以前から般若寺に祀ってあった仏像。寺が焼き討ちにあうと知った地元のI様が寺を守るために仏像や建物の一部を持ち逃げて大切に守ってきたといわれている。その中の一つであり、般若寺が復興するとの話を聞いてI様が寺に戻すことを相談に来られた。手が破損していなければ持ち物により何の仏像か推定できたであろう、高僧のお姿である。
地蔵堂(水子地蔵堂)
水子地蔵堂
地蔵菩薩
バラモン教の地神プリティヴィーが仏教に取り込まれ菩薩の一人になったといわれている。
釈迦入滅から56億7千万年の後に、弥勒菩薩が人間世界に出現するまでの無仏の間、
地蔵菩薩が釈迦仏の委託を受けて釈迦に代わり六道(天界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界)の一切衆生を能化し、救済するといわれる。特に地獄の衆生を導化し、代わりに苦しみを受けるとされることより、末法思想が普及するに従い、民間で地蔵信仰が急速に広まった。
身代わり地蔵、しばられ地蔵といわれるのは、人の苦しみを代わって受けるということによる。
延命地蔵、雨降り地蔵、笠地蔵、子安地蔵、水子地蔵など地蔵尊の多くの功徳を民間生活の中に取り入れ人々の願いを反映させることにより民間信仰として普及していった。
水子地蔵
俗説では、地蔵は子供の成長を守り、その死後、冥途の賽の河原といわれる場所(俗説)で、地蔵の法衣の袖にかくまわれて鬼から守られ、苦難を救うと伝えられ、子供の守護仏として信仰されてきた。幼くして子供を亡くした親たちは、子供の冥福を祈り供養するために地蔵和讃を唱えたり、地蔵尊を建立する風習が伝わり、さらにそれが発展し妊婦が安産のために信仰するなど民間に親しまれていった。
外周りの仏像
六地蔵尊
六地蔵尊
地蔵菩薩の説明参照。
六道輪廻を能化する六体の地蔵菩薩。
文殊菩薩と普賢菩薩
文殊菩薩と普賢菩薩

文殊菩薩(写真奥)
釈迦如来三尊として普賢菩薩と侍立し、釈迦に向かって右側に侍している。梵名を文殊師利、曼殊尸(し)利といい、智慧を司る智慧第一の菩薩。様々な誘惑を断ち、奮迅するとして「獅子」の上に坐している姿が一般的。

普賢菩薩(写真手前)
釈迦三尊として文殊菩薩と侍立し、釈迦に向かって左側に侍している。梵名を三曼多跋陀羅(さんまんだばざら)といい、慈悲を司る菩薩。軟らかい雰囲気ではあるがよく耐える性質から定力を持って諸行を摂取することを示すとして「白象」に坐している姿が一般的。単独では、特に延命の本尊とされ、普賢延命菩薩ともいう。

聖観音菩薩立像
一般に観音菩薩と呼ぶときは、「聖観音菩薩」をさしているが、後世いろいろな観音菩薩が現れたため、中世以降、最も代表的な観音菩薩を聖観音菩薩とした。
左手に蓮華のつぼみを持ち、右手でその花を開蕾させようと添えているお姿が一般的であるが、この「蓮華」は、私たち衆生が煩悩の泥沼から抜け出し、その汚れを寄せつけない仏の心を開く理想を象徴している。また、右手を施無畏印にして左手に水瓶を持ち、渇きに苦しむ衆生に手を差し伸べるという御誓願を示すお姿もあり、十一面観音菩薩、千手観音菩薩、さらには三十三観音菩薩と様々な観音菩薩が衆生を救うとして現れた。
弘法大師立像
空海(774年~835年)の修行像。