禅の言葉

禅の言葉

「禅」とは「無心」になりきり、自然と一体となる事で、お釈迦様のように「悟りの境地」へと到達するための修行です。「悟りの境地」とは即ち仏教の根幹である「空」を意味します。般若心経に「色即是空 空即是色」(しきそくぜくう くうそくぜしき)とあるように、「空」とは三千世界、「色」とは自分自身。つまり、世界と自分は一つであり、「禅」の精神はそれを認識し無我の境地に至ることで覚りを得ることが出来ると考えます。この世の目に見える全ての事象は儚く移ろいゆくもの(無常)。しかし、禅の修行を積むことで、無常を恐れる事なく仏心を見出す事が出来るのです。
ここでは「禅」の教えから生まれた様々な言葉をご紹介します。その多くは自分自身と向き合い、自分を見つめ省みることを説いています。

以心伝心(いしんでんしん)
禅宗で、言葉で表せない仏法の真髄を、師から弟子の心に伝える事を意味します。黙っていても考えが互いに伝わる事。
一期一会(いちごいちえ)
茶道の心得で、その時その時の出会いを生涯に1度の出会いと心得て感謝し、大切にするという意味。つまり、この一瞬を最後の出会いになるかもしれないと考えて、主客共に誠意を尽くそうという心得を説いています。
回向返照(えこうへんしょう)
外や他人に向きがちな心をまず自分自身の内面に向け、照らし、返す事。自分自身の内なる知恵の光で自己の仏性を照らし、常に自身と向き合い感謝と純粋な気持ちを忘れず過ごしましょう。
灰頭土面(かいとうどめん)
頭は灰だらけ、顔は土だらけという意味ですが、衆生を救済するために、文字通り灰や泥にまみれながら必死にもがき、迷いを断ち、厳しい修行を積むことで悟りを得ることができるのです。
閑古錐(かんこすい)
閑は「静かで落ち着いているさま」、「暇」という意味、古錐は使い古され役立たなくなった錐(キリ)を意味します。先が丸くなり、大工道具として使えなくなった錐は真新しい尖った錐にはない重厚さと風格があります。閑古錐とは、あえて多くを語らず急がず鈍重である事で、円熟した人間の魅力を積み重ねる様を表しています。一見ムダに見えるもの、役立たないように感じるものにこそ安らぎや学ぶべき事柄が存在しているものなのです。
喫茶去(きっさこ)
「よう来られた。どうぞ、お茶でも一服召し上がれ」という意味です。唐の時代、趙州という高名な禅僧が来客の際、初見、常連、身分を問わずどのような客にも一杯のお茶を振舞っていました。ある日、寺の院主と禅問答をした時、「和尚は初めて来た人にも馴染みの人にもみな同じようにお茶を振る舞われますが、それはなぜですか?」と問われ、院主にも同じように「喫茶去」と答えたそうです。相手によって態度を変えるのではなく、いつ誰に対しても等しく茶をすすめるという行為は目の前にある出会いや人を大切にするという意味でもあるのです。
壺中日月長し(こちゅうじつげつながし)
「壺中」とは壺の中の別天地「仙境」を指し、「日月長」とは時間に追われることなく悠々と過ごすことを意味します。壺中の悠々自適とした生活に憧憬を抱きながらも私達は現実の中で生きていかなければなりません。「遠い理想郷に思いを馳せるより、目の前の現実を精一杯生きることが大切」という教えと言えるでしょう。
行雲流水(こううんりゅうすい)
空を行く雲や流れる水のように何事にも執着をせず、自然に任せて行動すること。人が生きる上で様々な物事への執着が生まれます。それらを全て捨て去ることは難しいですが、無駄な執着を少しでも減らす努力をすることで、欲望や煩悩に縛られることから解放され、やがて自然のままに悠然と振る舞うことが出来るようになるでしょう。
照顧脚下(しょうこきゃっか)
「他人の言動を気にする前にまず自分自身の足元を見よ」という意味で、自己反省、日常生活において自分自身のおかれた立場を直視することを促す言葉です。「灯台下暗し」と言われるように、自分の足元は意外と見逃しがちです。人は多くの場合、他人の悪行はよく目につきますが、自分の悪行に対しては無頓着なものです。また、それこそが人でもあります。それを踏まえた上で自分自身の内面と向き合い、状況を把握し、省みることが大切になるのです。
洗心(せんしん)
文字通り心の洗濯を意味します。日々の生活の中で、心には様々な欲望や執着がこびりついていきます。これらが積み重なると煩悩に悩まされ独善的になったりすることもあるでしょう。神仏の前で手や口を浄めるように心も浄め、時には自分自身を見つめる時間が必要になります。
知足(たるをしる)
分をわきまえて分相応にふるまうこと。必要以上の物を求めず、現状に満足することを知る。人の心に欲望はつきものですが、欲望の器が大きいほど満たされることは少なくなっていくものです。欲望を完全に切り離すことはできませんが、強く求める衝動を抑えることは出来ます。欲望の器が小さければ満足に至るボーダーラインも下がることになり、慎ましい生活でも充足感が得られるようになるでしょう。心が満たされていれば渇望する心も生まれず、貧しくても広く清い心で過ごせるのです。
日々是好日(にちにちこれこうじつ)
人々が「今日も良き一日でありますように」と日々の無事息災を願っても、現実には晴れる日、雨の日、風の日など様々な困難に直面するものです。どれほど先の幸せを願っても時は無常に過ぎていきます。だからこそ、今日この日、この時を2度と来ない日であると考え、感謝し、全身全霊で生きる事こそ本当の「日々是佳き日」への道となるのです。
如是(にょぜ)
まさに、かくのごとく、このように、の意。釈迦の教えを信じて従うという意味を持ち、経典の冒頭に記される言葉。
天台宗の中心的教義の一つで、現象こそが真理に他ならないという事を示す意味でもあります→十如是(じゅうにょぜ)
平常心是道(びょうじょうしんぜどう)
平常心とは「乱れない心」、日頃の生活をきちんと行う心構えを持つ事で培われる精神の事です。どんな状況でも心を乱さず平静でいるのは難しい事かもしれません。しかし、毎日の生活の中で、当たり前の事を当たり前にやる事、日々の何気ない事でも誠実・丁寧に行う事で平常心は育まれていくものなのです。
無功徳(むくどく)
達磨大師と武帝の問答より。大師は、仏教に寄与したという自負を持ち何らかの功徳を期待していた武帝に対し、善行とは功徳(ご利益)を期待して行うものではなく、見返りを求めない無心の施し、神仏への絶対的帰依の心、祈り、誓いであると説きました。
山高月上遅(やまたこうしてつきのぼうことおそし)
大器晩成を表す言葉。本当に偉大な人、器の大きな人は大成するまで時間がかかるという事を意味します。高い山に遮られた月がなかなか姿を現さないように、何かを成し遂げるにはそれに見合った労力や時間が必要になるという事。今すぐ結果が出せなくても諦めずコツコツとしっかりやって行くことで必ず報われる時が来るという事です。継続は力なり。
和敬静寂(わけいせいじゃく)
茶道の心得を説く言葉。「和」とは和み調和する事、「敬」とは相手を敬う事、「静寂」とは雑音に惑わされず心静かである事を意味します。また、静寂は大乗仏教の「寂静」をも意味し、禅の根本となる「空」を意味しています。つまり「和敬静寂」とは、相手の立場に立ち、心静かに清浄であるという意味でありますが、そのためにはまず自分自身の心を見つめなおす必要があるという事です。自身と向き合うことで他者の存在を敬う心が自然に芽生えてくる事を教えています。また、字は「和敬清寂」とも書きます。