仏教を学ぶ

仏教は、紀元前5世紀頃、インドの釈迦(ゴータマ・シッダールタ)を開祖として興りました。
現在ではキリスト教・イスラム教と並び世界三大宗教と呼ばれています。
仏陀(覚りを開いた人=仏=釈尊)の説いた教えであり、自らも悟りを得て仏となる事を目的した宗教です。

ブッダについて
仏教の開祖、釈迦(本名=ゴータマ・シッダールタ)は紀元前5世紀頃、ネパールのタライ盆地にあるルンビニー園で、シャーキャ族(サーキャ族・釈迦族)の王子として誕生しました。
シャーキャ族は、現在のネパール南部からインド国境一帯のタライ盆地に住む地方豪族で、カピラバストゥを首都としていました。

ゴータマは「最も優れた牛」、シッダールタは「目的を成就する者」という意味を持っています。
インドでは、古来より牛が神聖な生き物とされ、シャーキャ族でも崇められていたようです。
ゴータマ・シッダールタはいわゆる俗名であり、彼は後に釈迦と呼ばれますが、この「釈迦」とはシャーキムニ(梵語)の音訳で、釈迦牟尼(釈迦族の聖者)の略称です。

スッドーダナ王(浄飯王)とマーヤー夫人(釈迦の生後7日目に死亡)の間に生まれ、王子として何不自由なく幼年期を過ごしたシッダールタは、学問にも技芸にも優れた才能を持ち、やがて思慮深く心優しい青年へと成長します。

16歳になったシッダールタはいとこのヤソーダラー(耶輸陀羅)と結婚し、一児をもうけました(釈迦の出家前に妊娠し、5年後に生まれたといわれる)
後に彼の十大弟子の一人となる息子のラーフラ(羅睺羅)です。また、ラーフラは十六羅漢の一人でもあります。

17歳になったシッダールタは、ある時、東の城門で老人を、南の城門で病人を、西の城門で死人を見て衝撃を受け、最後に北の城門から外に出て出家者と出会い感銘を受けたと言われています。
この時から彼は、人々を苦しめる老・病・死についていかにすれば克服出来るのかを常に考え、苦悩する日々が続きました。
そしてついに29歳の時、城や妻子を捨てて出家します。

出家後、5人の修行仲間とともに長い苦行に入りますが、どれほど苦痛や断食に耐えても覚りを開く事は出来ませんでした。
苦行で覚りが得られないと知った釈迦は6年間の苦行生活に終止符を打ちますが、他の苦行仲間は彼を脱落者として嘲笑します。
脱落者の烙印を押されながらも、ネーランジャラー河の岸辺で、スジャータという村娘が作ってくれた牛乳粥を食し体力を回復した釈迦は、ガヤー村の菩提樹の下で瞑想に入りました。
瞑想開始から49日後、とうとう彼は覚りを開き、修行者(菩薩)から覚醒者(仏陀)となったのです。出家して6年後の12月8日、釈迦35歳の時でした。
ガヤー村は、後に仏陀が覚りを開いた場所として「ブッダガヤ」と呼ばれるようになりました。

釈迦については、その存在が長い間疑問視されていましたが、マウリヤ王朝のアショカ王がルンビニー村へ巡礼に立ち寄った際、建立した石柱(1896年・ドイツ人フューラーが発見)によって実在が証明されることとなります。
石柱の碑文には、この地で仏陀が誕生したこと、アショカ王が即位20年目にこの地へ巡礼で訪れた記念に石柱を立てたことが記されていました。
また、1898年にルンビニー近郊のピプラーワーにて英国の駐在官ペッペが古墳を発掘し、ひとつの仏舎利(骨壷)を発見します。
その仏舎利には「この尊い仏陀の舎利壷は妻子姉妹とともにシャーキャ族の同胞が信心をもって寄進するところである」と記されていました。
この仏舎利は英国→タイ王国を経て、その一部が日本国民へ寄贈され、覚王山日泰寺に納められています。

釈迦の生没年に関しても諸説あり、誕生は紀元前5世紀という説、紀元前6世紀という説があり、両者の間には100年以上の開きがあるのです。
日本ではアショカ王の在位年数から推測される紀元前463年という説が有力視されています。
また、日本では誕生日を4月8日、没日を2月15日として、全国のお寺ではそれぞれ「灌仏会」(かんぶつえ)、「涅槃会」(ねはんえ)の法要が毎年行われています。
釈迦の生涯が80年であったという伝説は全ての説で一致しており、これに関しては疑問の余地はないようです。