施餓鬼のいわれ

施餓鬼(せがき)とは、字のように餓鬼にいろんな飲食物を施す法会の事を言い、今の自分の与えられた命を尊び感謝し、長生きを願う意味を持っています。
仏典の中にこういう話があります。

ある時、お釈迦様の弟子の一人でもある阿難尊者の前に突然、やせ衰えて喉は針のように細い醜い姿をした餓鬼が現れ、「三日ののちにお前は死ぬ。そして、私のような醜い餓鬼に生まれ変わるだろう」と言い、さらに「そうなりたくなければ、餓鬼たちにたくさんの飲食を施せ」と阿難に迫りました。阿難は驚き、恐しくなってすぐさまお釈迦さまのもとへ行き、そのことを伝え、どうしたらよいかたずねますと、お釈迦さまの答えは「無量威徳自在光明殊勝妙力」という陀羅尼(だらに・呪文)を唱え、そして飲食を施しなさい、そうすれば、餓鬼たちに寿命と無量の福徳を与えることになるであろう、ということでした。さっそく阿難は、お釈迦さまのいわれたとおりにし、そうすることによって命も助かり、お釈迦さまの弟子の中で、最も長寿を得たということです。

考えてみれば、私たちは日常なにげなく市場やマーケットで、米や野菜、肉、魚などを買い求めて食べています。これらの動物や植物も、意識するしないにかかわらず私たちと同じようにこの地上に生をうけ、一個体として存在しているのです。彼らの生命の犠牲のうえに、私たちの生命があるのですから、施餓鬼は、自分自身が長生きできますようにと願うだけでなく、人間以外の生きものの命をも尊ぶ、という心も大切にしなければなりません。
なお、施餓鬼は本来、特定の日を限定せずに毎日供養することによって、無量の徳が得られるとされるものですが阿難尊者が餓鬼に飲食を施すという説話と、目連尊者の母にちなんだお盆のエピソードとが似通っているためや、お寺での施餓鬼会が、盂蘭盆の法会と併行して営まれる、という理由などから、一般に施餓鬼はお盆の行事のひとつと考えられているのです。しかし、ごく日常的に行われている宗派もあります。