開眼供養
2003年、霧島般若寺に於いて、信者・門徒・縁の方々による開眼供養の儀式が行われました。
第19回節分・北斗採燈護摩供養・星祭り
2011年2月、霧島般若寺に於いて第19回節分北斗採燈護摩供養・星祭りが開催されました。多数の門徒・信者・縁の方々が来寺され、賑のもとに厄除け祈願、火渡りなどが行われました。その模様は南日本新聞にも掲載されています。
復興今昔(1988~2021に向けて)
般若寺復興には大変多くの方々のご協力をいただいております。
般若寺は、天台宗の高僧・性空上人(しょうくうしょうにん・910年~1007年)が平安時代中期の天慶(てんぎょう)年間(938年~947年)もしくは応和(おうわ)年間(961年〜964年)に開基したと伝えられ、2020年の時点で1082年ほどの歴史(性空上人の生誕から1110年)を持つと思われる古刹です。
その景観は、三国名勝図会において「一大古刹にして塵俗を離れたる幽邃(ゆうすい)の景状」と讃えられるほどでありました。
足利尊氏(1305年~1358年)が、建武3年(1336年)、31歳でこの寺を本陣とし天下統一を祈願したと伝えられています。
その時の別當(べっとう)に対し、尊氏は「日に向かふ 山のあるしを来てみれば 端山に照らす有明の月」と歌を詠んでいます。
この逸話は図画とともに、江戸後期に島津家(薩摩国、大隅国、日向国三国の守護大名・支配者)によって編纂された「三国名勝図会」(さんごくめいしょうずえ・1843年・島津斉興)に記録されています。
※島津斉興(しまづなりおき・1791年~1859年)
島津家第27代当主および薩摩藩第10代藩主。財政改革を中心とした藩政改革に取り組み、薩摩藩の財政を立て直し経済発展に寄与した。名君で名高い第11代藩主・斉彬(なりあきら)は彼の嫡男であるが、斉興は五男の久光を溺愛し家督を継がせようとした。しかし藩内では斉彬を後継者に薦める声も高く、嘉永2年にお家騒動が勃発した。その後藩内は斉彬派と久光派の対立が続いたが、嘉永4年2月、老中・阿部正弘の調停により斉興は隠居し、斉彬が当主となった。
この由緒ある古刹も、明治維新後の明治初期(1868年~)の「廃仏毀釈」によって甚大な被害を受けましたが、一部熱心な門徒信者の方によって深く静かにまた秘かに継続しておりました。
さらに、現在は下記の方々(あいうえお順で表記しています)によるたゆまぬ努力によって再建されております。
※ 秘仏を奉納してくださったI家の方々、霞山教師、井様、賢興教師世話人、井後眼科の皆様、第四百九拾参世法印、匿名で寄附を長期に渡り続けてくださった鹿児島市の高野山真言宗門徒の先生、同じく匿名で寄付を続けてくださった真言宗御室派の会社役員の方、朝井代表教師世話人、四国のU住職、海老原様、S家の皆様、奥様、倫法世話人、押領司様、泰生住職、川越世話人、高野山真言宗阿闍梨 大法師、木之下様、岐阜の皆様、児玉様、坂元様、伸和産業の皆様、志村様、地元の方々、寺僧ゆかりの人々(株)セコムの皆様、S師、早田様、田中様、谷口世話人、平世話人、田畑様、田村様、広島の田丸様、対馬の方々、鳥取の多くの方々、中原家の方々、新原世話人、林先生父子、平田様、吹田のF様、福村石材店の皆様、土木関係に尽力くださった方々(F様・M様)他、光妙管長(Наталья Полулях管長)、尼僧様、松元様、大阪のM家の皆様、松元商店の方々、美月世話人、(株)前田産業の皆様、大権現不動院宰主、三井忠大世話人、山角様、ヤマグチ株式会社の皆様、㈲山一商事の皆様、湧水町教育委員会の皆様、対馬の横松様、吉村様、R師、LUTECIA株式会社の皆様、ルフトビル株式会社の皆様、歴代の世話人の方々、ロックマン様、また多くの寄附をしてくださった方々
(抜けのないよう記載致しておりますが、お気づきの点がございましたら御指摘ください)
また、現在は、釈迦如来の教え、「神仏習合」の原点に立ち帰り、仏門・神道・宗派を問わず、「日向山 九品院 般若寺」として、門戸を大きく開いています。
釈迦如来の教えである「正法興隆」(しょうほうこうりゅう・釈迦如来の真実の教えを興起し広める)、「衆生済度」(しゅじょうさいど・生きとし生けるもの全てを迷いの中から悟りに導く)を教義とし、信徒、門徒の教化育成を通じて地域・世の中に貢献する事を目的としています。(光妙管長)